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若坊主(修行中)でございます。
今月の言葉はこちら
「池の水 人の心に 似たりけり にごり澄むこと さだめなければ」
この和歌は浄土宗の宗祖である法然上人がお詠みになったものです。
”人の心は池の水のように濁ったり澄んだりと、とても落ち着かないものである”という意味です。
これは池の水の様子を私たち人の心に喩えて詠まれたものです。
コロナ禍のなか、お盆(と夏休み)を終えて特にいつもと違う夏を過ごされたことでしょう。
長期休みには何気なく家族のもとに帰省することが出来、また気兼ねなく人に会うことができたはず…
それが今や人と人との関係の在り方や、心の距離にさえ変化が起き兼ねない環境を強いられています。
しかし一方で、改めて人との関係について考えるよい機会にもなったといえましょう。
今年は会えなかった方と次に会うことを、今から心待ちにしている方もいれば、
良い意味でも悪い意味でも、この人とは直接会わなくても案外平気だなと(中にはせいせいしたと)思った方もいるでしょう。
コロナ禍は何を残すのか?
今回のコロナ禍は、私たちの心の水面に波紋を広げたようなもの。
新型コロナに限らず、何らかの感染症の脅威は少なからず内在したはずですし、
デジタルを駆使しつつ、例えば人間関係の在り方の取捨選択が出来たはずです。
かねてから日本の基礎的単位であった”イエ”や”ムラ”の文化はコミュニュティーを限定する中で、
ある側面では自己防衛策として、排他的な様相をもっていました。
過去を紐解けば、それが人に限らず作物や家畜においても、
いわゆる感染症対策の一環に寄与した面もあります。
もちろんそれが高度経済成長を支え、様々なユニットの中で文化を構築してきたことには大きな意義がありましたが、
いま現在それが失われつつある以上、いわば前時代的な社会構造であったと認めるほかありません。
良いか悪いかはさて置き、個人主義にひた走る現代において、
まさにこのコロナ禍で「自⇔他」あるいは「個⇔全」のありようをよりミクロに、
しかも連続的に選択を行う必要に迫られています。
しかし時の流れの中では、病原も情報も、人の心さえも無常であります。
コロナ禍に限らず、自らの人生の選択に影響を与える出来事を与えたこの事実と向き合い、
乗り越えなければなりません。
その向かう先がどうなるのか、はっきりしたことは誰にも分りませんが、
どんな形であれ人は一人では決して立っていることは出来ません。
コミュニュケーションに始まる不要不急の営みこそ、人間社会の根源なのではないでしょうか。
もちろん正しさをはき違えるわけには参りませんから、随時適当に判断する必要があるでしょうが。
心の池の波紋は、本当に外から石を投げられて立ったものでしょうか?
表面は澄んで見えていても、池底のドロに何が流れているか、また、隠れていたかわかりません。
ですから、法然上人は自らの心の動きをすべて込めて”池の水”と詠ったのかもしれません。
いつもは考えの及ばないことでも、コロナ禍という風は池の水を揺らします。
そういった時にこそ立ち止まって、
ひと時も同じありようのない自分の心をしっかりと見つめていきたいものです。
一刻も早い沈静化を願い、またコロナ禍に失われた多くに思いを馳せようと今日も修行に励みます。
合掌