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浄土宗について

浄土宗とは?

開祖 法然上人

1133年(長承2)4月7日生。法然上人(幼名勢至丸)は平安時代末期の美作国(岡山県)に武士の子として生まれました。9歳の時に父・漆間時国が敵対勢力からの夜襲に遭い、勢至丸の目の前で息を引き取ります。武家の習いによるならば勢至丸に課せられるのは「仇討ち」ですが、父・時国公はそれを望みませんでした。時国公は死の直前「敵を恨んではいけない」と仇討ちを諫め、また「出家して迷い苦しみを離れ、私の菩提を弔いなさい」と言い残して絶命しました。時国公は恨みが恨みを呼び、憎しみが憎しみを呼ぶことを知っていたのです。

こうして父の遺言に真摯に従い13歳で出家し比叡山に上った法然上人。比叡山では天台宗の修行と勉学に明け暮れ、わずか数年にして「智慧第一の法然房」と謳われるまでになります。ところが、法然上人自身にはそうした意識は全くなく、それどころか「ろくに戒律も守れない、一つの修行も満足に成し遂げることのできない、なんと愚かな自分であることか」と、厳しく自己を見つめる日々が続きました。

その自らを厳しく省みるうちに「本当に困っている人たちにこそ、仏の慈悲は注がれなくてはならない。煩悩に満ちた罪深いものこそが救われなくては何の意味があろうか。」と思い至り「そのための誰にでもできる教えや修行が必ずあるはずだ」と更なる修行を重ねることとなります。

浄土宗の開宗

あるときには名僧と謳われる学者を訪ねては教えを学び、あるときは経蔵にこもり「一切経」という経典の大全集数千巻を紐解いて何度も読み返す日々。しかし、それでも満足することはできず、法然上人はしばしば絶望に追い込まれます。教えを求める師もなく、また納得の行く教えを得ることもできない苦悶の旅は延々と続きます。

しかし、法然上人43歳のとき――。やがて長い苦悩に終止符が打たれる日がやってきます。それは、中国の善導大師の『観経の疏』という書物に説かれている一文を読んだときです。

 ” 一心専念弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念々不捨者 是名正定之業 順彼仏願故 ”

「一心にひたすら阿弥陀仏のお名前を称え、行動しているときも家にいるときも座っているときも寝ているときも、いつでもその仏をひと時も忘れず、捨てないことを本当に正しい行いというのです。なぜならば、それが阿弥陀仏の衆生を救うという誓願による行いだからです」という意味です。それは「念称是一」といって、念ずることは称えることと一致するということを意味します。そのように阿弥陀仏のみ名を称えていれば、必ず誰もが極楽浄土に救い取られるという事を表明した文でした。

上人は、脳裏から暗雲が晴れて輝かしい光が眼前に開かれていく思いを得ました。上人のほほを、感激の涙がとめどなく流れ落ちました。上人は西に向かって合掌し、念仏を称えました。さらに感極まって五体を地に投げ出し、なおも法悦の涙を絞るのでした。

「知恵第一」とたたえられた法然上人の三十余年にわたる精進の収穫は、いっさいの知恵学問を捨て去ることでした。そして、ただひたすら念仏を称えれば阿弥陀仏がすべての人を救ってくださることを悟ったのです。承安五年(1175)春、ここに浄土宗開宗となりました。

浄土宗の教え

「南無阿弥陀仏」
この言葉は、大抵の方が耳にされたことがあるはずです。また、阿弥陀仏(阿弥陀如来)や西方極楽浄土という言葉も耳にしたことがあるのではないでしょうか。浄土宗の教えは、このお念仏をとなえて阿弥陀仏の極楽浄土へ生まれゆくこと(往生)を願うという、きわめてシンプルで分かりやすいものです。

仏教ではさまざまな修行が説かれています。どれも、私たちの抱える苦しみや悩みから自由になること――つまり「さとり」に至るためのものです。しかし法然上人が目の当たりにした当時の仏教はどれも困難なもので、特に続く乱世や天災による飢饉・貧困に喘ぐ庶民にとって、手の届かない存在でした。時間的、物理的な制約もあるでしょう。しかし何より、生きていれば当たり前にもってしまう”煩悩”という厚い壁が妨げとなっているからにほかなりません。そこで法然上人が目を向けたのが「お念仏の教え」つまり「南無阿弥陀仏」でした。

西方極楽浄土の仏さまである阿弥陀仏は「私の国(極楽浄土)へ生まれたいと願って私の名前を呼びなさい。そうすれば煩悩の有無などに関係なく、必ず極楽浄土に迎え導きます」と誓われています。その誓い(本願)を素直に信じ、心からお念仏をとなえ、悩みや苦しみのない浄らかな仏さまの国(西方極楽浄土)へ救い導いていただきましょう、というのが浄土宗の教えの根幹です。

浄土宗のお経とご本尊

極楽浄土や阿弥陀仏、お念仏のことは『無量寿経(むりょうじゅきょう)』『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』『阿弥陀経(あみだきょう)』というお経に説かれており、浄土宗ではこれらをよりどころの経典としています。葬儀や各種法要で読み上げられるのは、主にこれらのお経(またはその一部)です。また、寺院やお仏壇のご本尊(ほんぞん)には阿弥陀仏を、脇侍(きょうじ)として向かって右に観音菩薩(かんのんぼさつ)を、左に勢至菩薩(せいしぼさつ)お祀りします(一部、由緒や歴史などから、他の仏さまや菩薩さまをご本尊としてお祀りしている寺院もあります)。

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どのようなお正月を過ごしますか?

「もうい~くつ寝ると~お正月~♪」

子どものころ、お正月には何か楽しいことがあるように願ったものです。

年頃の近い親戚と遊ぶことが出来ましたし、お年玉もまだもらう側でした。

その少し前のツリーを出してクリスマスはするけれども

おせち料理も作らず、お屠蘇も飲まず、門松も注連飾りも飾らなくなりました。

正月行事を祝う人がどんどん少なくなっています。

今年は新型コロナウイルスの再熱もあり、各ご家庭も人がなかなか集まらないようですから、

ますますこの状況は進んでいくことと思います。

それでも、変わらず大晦日も正月もやって参ります。

年末大掃除の時には、まず仏壇の掃除をして、鏡餅やお花などのお正月のお供物を上げましょう。

ホームセンターで売られている松飾りの千両の赤い実と松の緑が非常に美しく、

これを見ると年末そしてお正月へのモードに入るものです。

初詣について

二年参りや初詣はぜひ菩提寺にお詣りにいらしてください。

この状況ですから、感染対策に加え、歓迎の仕方は少し変わってくるかもしれません。

お葬式・お墓参りなど不祝儀が多いお寺の行事のなかで、

唯一おめでとうといえるのはこのお年賀の時だけです。

一年の計は春にあり、一年の計は元旦にあり、一年の計は明日にあります。

新たな年を迎えるにあたり、心もまた新たにしたいものです。

仏様やご先祖様のような強く大きな力(つながり)に近づいて

この一年を見守っていただきたいという願いは大切なことでしょう。

合掌

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ことのは掲示板 2020年11月

今年もわずか二月を残すところとなりました。

鮮やかな赤黄に移り行く山々に秋の深まりを感じます。

若坊主(修行中)で御座います。

今月の言葉はこちら

「あみた仏に そむる心のいろにいては あきのこすゑのたくひならまし」

【現代かな】阿弥陀仏に 染むる心の色に出でば 秋の梢の類ならまし」

今月の言葉も、先月に引き続き法然上人の和歌から頂戴しております。

分かりやすく読み解くなら、次のように言い換えることが出来ます(私訳です)。

「阿弥陀仏を信じる心を色に喩えるなら、きっと美しい秋の紅葉のようなものでしょう」

法然上人が、紅葉に染まり行く秋の風情に誘われてこの御歌をお詠みになったといわれています。

私はこちらの和歌に、二つの意味が込められてると頂いております。

1つには"信じる心は紅葉のように少しずつ染まっていくものです"という意味。

1つには"慈光に照らされたそれぞれが赤や黄に染まり、それぞれ美しく輝いている"という意味。

これら合わせて「ありのままの信心と日々のお念仏」の大切さを、

この和歌に詠まれたのではないでしょうか。

秋という季節

さて、秋というイメージは一方では「食欲の秋」「スポーツの秋」「読書の秋」といった

気候の良さや充実した作物によるポジティブな側面を多く感じることが出来ます。

しかし一方で冬が近づくにつれ、日に日に寒さが厳しくなり、青々とした木々が消え行くような

そんな退廃的で鬱屈とした、いわゆるネガティブな側面も孕み得る季節でもあります。

特に陽が次第に短くなっていくにつれ活動性が低下しがちな季節ともいえますから、

心の持ちようによっては、哀愁や悲嘆を感じざるを得ないとも限りません。

しかしだからこそ、一瞬を輝く紅葉の美しさに心惹かれるのかもしれません。

こうして、その時に感じた「一瞬の心の動き」に目を止めることもまた、

季節の移り変わりの醍醐味であるなと、ふと木々を見上げて思うのです。

紅葉の仕組み

秋の風物詩といえる紅葉ですが、そのメカニズムは一説には次のようにいわれます。

春に芽吹いた葉は、夏の強い日差しを受けて青々と生い茂ります。

葉緑体での光合成により、緑の色素を持つクロロフィルが次々に生産されることで、

生き生きとした葉が生い茂ると、中学か高校のどっちかで習いました。

秋になると陽が穏やかになり、光合成のためのエネルギーが少なくなってきます。

そうして気温の低下に伴って光合成の活動が弱まってくると、

「こんなに活動が出来ないならば、木が生きるためには葉を落とすしかないな」という

生存戦略を一部の植物が取るそうです。これが落葉樹ですね。

すると、落葉樹は葉を落とすために葉緑素を分解して枝や幹に戻し始めます。

この過程でもともとあった黄色の色素が出てくるのだそうです。

一方で赤色はというと、落葉のために幹と葉の栄養供給が遮断された結果、

葉に残った栄養分がアントシアニンという赤い色素に変わり、葉を鮮やかに染めるのです。

このように植物によって栄養供給のメカニズムや生存戦略が異なっていたり、

また日当たりの差や葉の重なりによって、色づきが異なる理由だというのです。

紅葉を詠む

つまり柔らかな秋の陽に照らされて、もともとあった黄の色合いが表に出てきたり、

照らされ続けることで赤色に変わっていったりというのが、紅葉の仕組みといえます。

阿弥陀仏の慈光を柔らかな秋の陽の光に喩え、移り行く季節の中で

信じる心が赤や黄に少しずつ、そしてそれぞれ、美しく染まっていく。

浄土宗の教えで最も大切である「南無阿弥陀仏」とお唱えするだけで往生が叶うという、

にわかに信じられないようなことであれ、切な気持ちやそれに基づいた行動を積み重ねることで

その人なりの信心に変わっていき、その人らしい救われ方につながる。

そしてそのすべては阿弥陀様の御心によるものですよと、

法然上人は私たちに詠み伝えたのではないでしょうか。

「みんな違って、みんないい」というお念仏

科学や数学の目覚ましい発展の中で、白黒はっきりするような極端な二元論が好まれるこの時代。

「疑いの心」があるならば「信じている」ということすら憚られる時代でもあります。

なんだかわかんないけれど、こうしていると心が落ち着く気がする。

信じてはいないんだけど、お寺で手を合わせると何だか故人を供養しているような気になる。

よくわからないけど、仏前や焼香の時は手を合わせないと変な心持ちになる。

本当に些細なことで構いません。今の自分に出来る小さなこと」から始めましょう。

小さなこと」に気付けるよう、自分自身を見つめる機会を持ちましょう。

小さなことこそ、大きなものにつながる一つのピースに、既になっているかもしれません。

その機会こそが、たとえばお葬式であったり、法事であるのかもしれません。

ですからお寺参りに来る方には、その人なりの心の作法がありますし、供養があります。

そういう気持ちを大切にしながら、自然と手が合わさるお寺になったらいいなと考えています。

合掌

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秋――。お十夜の季節がやって参りました。

ご覧いただきありがとうございます。

黄金色の稲保が徐々に消え、一気に秋めいて参りました。

稲作農家のみなさま、美味しい秋を有難うございます。本当にお疲れ様でございます。

最近は晴れ間が少なく、また朝夕めっきり冷え込む日が続いております。

さて、本日はこの時期に行われる「お十夜」について学んで参ります。

「お十夜」って何?

「お十夜」というのは主にこの肌寒くなってくる時期、

つまり10月から11月にかけて修せられる浄土宗独自の法要のことをいいます。

浄土宗で大切にしているお経のひとつ『無量寿経』には、

この世で十日十夜の善行をなせば、極楽で千年分の善行を積むことに勝る"とあります。

これだけを見ると、なんだかこの世で善行を積む方が簡単なように感じられますが、

実は全く逆の意味を指しています。それは、

この世で十日十夜の善行を(本当に)行うことが、もし出来るなら~」というわけです。

何故ならば人は生きていれば腹も減りますし、もちろん眠くもなります。

ましてや、たった数時間だとしても、ずっと集中して善行を続けることはむずかしいでしょう。

脳科学の世界では「集中は15分しか続かない。脳は大変疲れやすい。」というのが定説で、

生身の身体と、落ち着かない心をもつわれわれ人間。明けては暮れる時の流れのなかで

十日間の善行を積むことなど、人間には到底ムリなことなのです。

だからこそ、こうして「お十夜」という法要を浄土宗では大切にしているのです。

もう少し「お十夜」について詳しく見て参りましょう。

「お十夜」の縁起

時をさかのぼること570年、永享年間(1429-1441)は室町幕府のころ――。

京都にある真如堂というお寺に、平貞国という武士がお参りにやってきました。

貞国の兄:貞経は当時幕府の執権、いうなれば総理大臣のような非常に高い地位にある方です。

血で血を洗うことが珍しくないこの時代、兄弟は仲たがいの道を選ばざるを得ませんでした。

弟:貞国はこの立身出世の厳しい競争を憂い、自ら身を引こうと決心します。

ならばと貞国は、真如堂に詣で三日三晩の神仏にお祈りしたのち、出家しようと考えたそうです。

京都京都市左京区にある真如堂。正式には鈴聲山真正極楽寺という。

しかし三日目の夜。貞国の夢枕に尊いお坊さんが現れて貞国にこう言いました。

「貞国よ。出家し仏に使えることで、みなを幸せにしたい気持ちはよく分かった。

 しかし、他の仕事を通じて世のため人のために尽くす道も、また仏の道であろう。

 ならば貞国、あなた自身の出家について、今一度見つめなおすといい。

目覚めた貞国は、汗を握りしめた両手を見つめ、ふと枕元にあった剃刀を再び仕舞います。

するとそれから一刻ほどして、貞国の御家から驚きの知らせが入ります。

なんと兄:貞経が上意に背き隠居させられたというではありませんか。

貞国は「出家を待てと言ったのはこういうことであったか」と感じ、すぐに家督を継ぎます。

その後、執権職にまで就かれ、国や人々のために力を尽くすこととなりました。

もし、この有難いお告げが無ければ、貞国は目覚めてすぐに剃髪のうえ出家してしまい、

兄の跡こうして家督を継ぐどころか、まさに御家が断絶してしまうところであった。

※ちなみにこの貞国の娘は後北条氏として有名な戦国大名:北条早雲を後に産んでいます。

こうしてお告げを有難く頂戴した貞国は、この後、さらに7日間を加えて「十日十夜」、

仏様の前で報恩感謝の念仏(恩に報いて感謝するお念仏)を行ったという。

これが浄土宗の「お十夜」の始まりになったといわれています。

なんのために「お十夜」をやるの?

今の時代は本当に忙しい時代です。

日の出とともに起き出して、陽が沈んだら早々に床に着く、というわけには参りません。

目が覚めれば仕事に向かい、暗い中を帰ってきては、明日のためなるべく早く寝なきゃならない。

どこの家も日付が変わるくらいまでは一部屋くらい電気が煌々とついていることでしょう。

テレビやスマホの画面が消えることはなく、年々睡眠時間も短くなってきているそうです。

やらなきゃならないことから、やりたいことまで、時間は本当にどれだけあっても足りません。

ですから、十日十夜どころか、毎朝の仏壇参りすら出来なくても全く不思議ではありません。

それだけ時間の使い方と、人生が豊かになったということですから、有難い話です。

でも、だからこそこうして特別に日を設けて、出来る限り集中してお念仏をお唱えし、

その功徳を先祖代々あるいは新亡等(今年亡くなった方など)に向けて回向を行います。

このように貞国に倣って御先祖さまや新亡等の恩に報い、またお念仏をお唱えすることで

浄土往生のために功徳を振り向ける大切な法要が、この「お十夜」なのです。

大切な方のことを心に思い浮かべて、ともにご供養の善行を積んで参りましょう。

合掌

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ことのは掲示板 2020年10月

10月に入り朝夕はめっきり肌寒くなって参りました。

若坊主(修行中)で御座います。

ことのははこちら

「阿弥陀仏と 十声称えて まどろまん 永き眠りに なりもこそすれ」

この和歌は浄土宗の宗祖である法然上人がお詠みになったものです。

”「南無阿弥陀仏」と十遍お称えしてから、夜休むようにしたいものです。

いつ永遠の眠りにつくとも限らないのですから”という意味です。

この御歌には2つの意味が含まれているように感じます。

1つには”いつでもお念仏の中で生活をいたしましょう”という意味。

1つには”この世は諸行無常であることを心得ましょう”という意味です。

この両者を合わせた常行念仏をこの和歌に詠まれたのではないでしょうか。

最近の報道を受けて

さて、ここ最近著名な方の自死がセンセーショナルに取り上げられています。

本当に悲しいことであり、ニュースを目にするたび心が痛くなります。

またその悲しみの連鎖がしきりに取り沙汰されている点も、今回の報道加熱の特徴です。

たとえば大切な人を亡くされた方は、その残酷な事実を受け入れようと

ときに自己を責めてさらに苦しみを増やし兼ねません。

しかし、近しい人はおろか、その選択をした本人にすら

その”明日”を予見し得なかったということも、往々にしてあるのではないでしょうか。

そんな困難で複雑なものごとの理由や責任を、誰かが抱える必要はないのかもしれません。

我々は誰一人として、こうして命を頂いた理由を知らず、

死ななければならない理由もまた、わかりません。

そもそも、生も死も"それ自体"として自分が体験することが出来ない以上、

そのいずれの「理由」や「責任」を語ること自体が不毛なことです。

あえて言葉にするのなら、私たちの生や死は、それ自体として意味や価値はありません。

生に意味や価値を生むのは、死を選択できるにも関わらず、生きることを決断したそのとき。

つまりそれ以前には何もなく、生きることの決断の後に意味と価値があるといえます。

こうした一人ひとりの困難な決断の連続が、人として生きる意味と価値を創造します。

つまり相対的に、他の決断が自らの生に意味や価値を直接に与えることが出来ない以上、

無条件でそれらを肯定する権利も、否定する権利も持たないということになります。

「南無阿弥陀仏をお唱えしましょう」とは?

法然上人はこの和歌で「いつでもお念仏の中で生活いたしましょう」という教えを残されました。

しかし「いつお迎えが来ても良いように」という境地に至るのは大変困難なことです。

修行中の私はこれを「一生懸命に生きましょう」と読み替えます。

「精一杯いまを生きましょう。何があるかわかりませんから。」ですね。

何が起こるかわからない世の中を、出来るだけ精一杯に生きる。

ただなにも、過度に頑張ったり、無理をしろということではないでしょう。

何事もなるようになるものはなるし、ならないことはならないものです。

"生"も"死"も見方を変えれば、なるようになるし、ならないことはならないもの。

ただひとつ、いま、いま、いまの生を決断し続ければ、後ろに意味と価値とが生まれます。

私のような残念な生グサの場合、たとえ自分なりに精一杯生きて、死んでいったとして

果たして惜しまれるのか悲しまれるのか、それともせいせいされるのかわかりませんが、

少なくとも大切に思っている人に、存在自体を意味として感じ取っていただきたいものです。

それが私が人として生きるために、唯一出来ることなのではないでしょうか。

そんなことを考えながら、今日もまた私は「南無阿弥陀仏」お唱えします。

合掌

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新阿弥陀如来像奉戴について

朝夕がめっきり冷え込む季節となりました。みなさまお元気でお過ごしでしょうか。

さて、当山では令和2年9月12日に新たな脇本尊の奉戴と開眼供養を執り行いました。

当山は正式には竹子山千手院宝蔵寺といい、千手院の名の通り千手観音様をご本尊とするお寺です。

しかし浄土宗ということもあり、その本尊様の向かって右側の厨子に、阿弥陀三尊像を奉戴。

それが第36世識譽上人代といわれており、二〇〇年近く脇本尊として当山を御守り頂きました。

しかし16年前の中越地震で落下して破損し、その後残念ながら簡易的補修のみとなっていました。

旧阿弥陀三尊立像

この度、尊像住職寄進の先例に倣い第43世念譽(当世)より新阿弥陀三尊像を寄進いたしました。

本来ならば檀信徒皆様にご披露ならびにご参拝賜りたいところでしたが、

昨今の新型コロナウイルス感染防止の観点からご参詣は控えさせていただき

当山総代、役員様御参詣のもと、新三尊像の御奉戴ならびに開眼供養を執り行いました。

新阿弥陀立像

檀信徒みなさまにおかれましては、ぜひ当山参詣の折に

ご参拝賜りますようよろしくお願い申し上げます。

末永く人々の想いが受け継がれて参りますように。

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ことのは掲示板 2020年9月

ご覧いただきありがとうございます。

若坊主(修行中)でございます。

今月の言葉はこちら

「池の水 人の心に 似たりけり にごり澄むこと さだめなければ」

この和歌は浄土宗の宗祖である法然上人がお詠みになったものです。

人の心は池の水のように濁ったり澄んだりと、とても落ち着かないものである”という意味です。

これは池の水の様子を私たち人の心に喩えて詠まれたものです。

コロナ禍のなか、お盆(と夏休み)を終えて特にいつもと違う夏を過ごされたことでしょう。

長期休みには何気なく家族のもとに帰省することが出来、また気兼ねなく人に会うことができたはず…

それが今や人と人との関係の在り方や、心の距離にさえ変化が起き兼ねない環境を強いられています。

しかし一方で、改めて人との関係について考えるよい機会にもなったといえましょう。

今年は会えなかった方と次に会うことを、今から心待ちにしている方もいれば、

良い意味でも悪い意味でも、この人とは直接会わなくても案外平気だなと(中にはせいせいしたと)思った方もいるでしょう。

コロナ禍は何を残すのか?

今回のコロナ禍は、私たちの心の水面に波紋を広げたようなもの。

新型コロナに限らず、何らかの感染症の脅威は少なからず内在したはずですし、

デジタルを駆使しつつ、例えば人間関係の在り方の取捨選択が出来たはずです。

かねてから日本の基礎的単位であった”イエ”や”ムラ”の文化はコミュニュティーを限定する中で、

ある側面では自己防衛策として、排他的な様相をもっていました。

過去を紐解けば、それが人に限らず作物や家畜においても、

いわゆる感染症対策の一環に寄与した面もあります。

もちろんそれが高度経済成長を支え、様々なユニットの中で文化を構築してきたことには大きな意義がありましたが、

いま現在それが失われつつある以上、いわば前時代的な社会構造であったと認めるほかありません。

良いか悪いかはさて置き、個人主義にひた走る現代において、

まさにこのコロナ禍で「自⇔他」あるいは「個⇔全」のありようをよりミクロに、

しかも連続的に選択を行う必要に迫られています。

しかし時の流れの中では、病原も情報も、人の心さえも無常であります。

コロナ禍に限らず、自らの人生の選択に影響を与える出来事を与えたこの事実と向き合い、

乗り越えなければなりません。

その向かう先がどうなるのか、はっきりしたことは誰にも分りませんが、

どんな形であれ人は一人では決して立っていることは出来ません。

コミュニュケーションに始まる不要不急の営みこそ、人間社会の根源なのではないでしょうか。

もちろん正しさをはき違えるわけには参りませんから、随時適当に判断する必要があるでしょうが。

心の池の波紋は、本当に外から石を投げられて立ったものでしょうか?

表面は澄んで見えていても、池底のドロに何が流れているか、また、隠れていたかわかりません。

ですから、法然上人は自らの心の動きをすべて込めて”池の水”と詠ったのかもしれません。

いつもは考えの及ばないことでも、コロナ禍という風は池の水を揺らします。

そういった時にこそ立ち止まって、

ひと時も同じありようのない自分の心をしっかりと見つめていきたいものです。

一刻も早い沈静化を願い、またコロナ禍に失われた多くに思いを馳せようと今日も修行に励みます。

合掌

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令和2年度 堀之内地区 戦没者供養

9月1日、当山にて「令和2年度 堀之内地区 戦没者供養」が開催されました。

当地区のご遺族の方々およそ20名がお参りくださいました。9月を迎えてもなお残る厳しい暑さのなか、感染症対策でのマスク着用にご協力いただきありがとうございました。

80名を超える多くの御霊の慰霊を行い、みなさまからお焼香とお念仏によるご供養を頂きました。

読経後の法話では住職より”人と人はつながりのなかで大切なことを伝えていく”ことを仏教者の目線を通してお伝えいたしました。人が花を綺麗と感じることが出来るのは、誰かが花は美しいと教えてくれたからに他なりません。同じように、戦争の悲しさや悲惨さはこれからも伝え残していかなければならないことです。

今年で終戦から75年を迎え、戦争体験を記憶に残す世代の高齢化が進んでいます。そのそれぞれに、つないできた戦没者含む尊い命があって、そしてまた、今を生きる命があること。話し方からご飯の食べ方といった幼い時分に学んだ習慣から、子を持ち我が親の大変さに思いを馳せるまで、すべて人が命をつなぐなかで伝え、伝えられてこと。こうして慰霊を行い、過去を振り返り先人に敬意を払うことで、却っては自らの未来の人生の糧にしていくことができるのでしょう。

”戦後”とは日本人にとって太平洋戦争以降ということを意味します。しかし、他国に目を向ければ幾多の戦争が起こり、いまなおその戦火に苦しんでいる国もあります。日本が”戦後”と呼べるのは、その多くの犠牲に敬意を払い、戦争の悲惨さを反省し、なお平和を享受してきたからに他なりません。平和の構築とその現状については様々な立場があって、いろいろな考え方があるでしょうが、戦後75年が経たことは紛れもない事実であり、この平和がこれからの世代にも続いていくことを願っています。

合掌

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浄土宗が開かれた理由

仏教は今からおよそ2500年前、インドに生まれたお釈迦様によって説かれた教えです。その真実を述えたその教えは当時のインドを席巻するに留まらず中国・朝鮮半島と西域に巡り、独自の発展と変容を経ながら、間もなく古墳時代の日本に伝来しました。その後、飛鳥時代に入り聖徳太子が現れると、仏教精神にのっとった「一七条の憲法」が制定され、その鎮護国家思想(=仏教には国を鎮め守る力がある)により仏教は大きな発展を遂げました。

時代は下り奈良時代、平安時代を迎えると伝教大師最澄と弘法大師空海がともに遣唐師船団で中国に渡り、最澄は天台宗を、空海は真言密教を携えて帰国します。こうして日本の仏教は極めて華やかな展開を示すこととなりました。しかし、この時代までの仏教は主に国家護持のための仏教であり、天皇や貴族の加護のために発揮される色彩が強く、一部の学問や芸術を除けば、一般庶民にとってはまだまだ手の届かない存在でした。仏教が国の発展に寄与した一方で、最下層で喘ぐ一般民衆は置き去りの状態であったといえます。

鎌倉時代を迎えると、そうした最下層で飢えや貧困に喘ぐ一般民衆をも、どうにかして救うことが出来ないかと、次第に新たな危機感に基づいた仏教が起こり始めます。続く戦乱に加え、度重なる天変地異が続きたこの時代。まさに人々は仏教経典に記された「末法思想(=仏教が衰退し人も世も荒廃するという歴史観)」と重ねて、言いようのない絶望感を抱える生活を送っていました。

そんな時代に登場したのが、鎌倉新仏教の旗手といわれる人たちでした。法然上人(浄土宗)、親鸞聖人(浄土真宗)、栄西禅師(臨済宗)、道元禅師(曹洞宗)、日蓮上人(日蓮宗)、一遍上人(時宗)。いずれも如何にして悟りを求め、同時に苦境にあえぐ人々をどうすれば救い取ることが出来るのかというテーマを自らに課し「民衆教化(≒在俗生活における仏教の実践)」をひとつの目的として開かれた仏教の新しい流れでした。何より一般庶民にとって既存仏教は非常に困難で、教養を必要とする敷居の高いものであった。それを簡単に示す方法が、この鎌倉新仏教をひとつのムーブメント足らしめた要因でありました。

法然上人はまさにこの仏教新時代の立役者の一人であり、今もっとも大切なことは、この「私」が仏教を理解し、それに基づいて如何に生き、そして救われるかということを「南無阿弥陀仏」のわずか六文字に集約しました。その易しい教えは不安に苦しむ人々が対峙する、日々を生き、働き、生活する「私」が、如何に主体的に仏の教えを受け止めるかということについて、ひとつの答えを与えてくれました。

法然上人が修行のなかで得た、深い洞察力と優れた時代認識により、このような最悪の時代に生きる我々もまた、罪深き「凡夫(=煩悩に囚われ正しい教えを実践できない人)」であると自覚されました。それでも、顔を上げて前を向いて生きていくための希望の光をこの暗い時代に注ぐため、法然上人は浄土宗の開祖となり、教えを人々に広めたといわれています。

合掌

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コロナとお盆

 世界全土が新型コロナ一色に染まった2020年。それでも季節は廻り、今年もまたお盆のシーズンがやってきました。特に今年はゆっくりとお盆休みを取ることが出来ない方も多いと思います。この長期の休みに家族に会いに帰省し、そして先祖参りに行かれる方もたくさんいらっしゃったことでしょう。今年のみなさまはいかがお過ごしでしょうか。

お盆になるとご先祖さまが浄土よりお戻りになるといいます。そのため迎え火や墓参りを行くなどして家に迎え入れ、ともに家族とひとときを過ごすことでその御霊を供養します。大切な方へ心を尽くし、そしてそのつながり(ご縁)に感謝する日本の伝統行事です。つまりは私が私という固有の存在ではなく、人と人のつながりの中にあるということを改めて気づかせてくれる行事であるといえます。

コロナ禍中のいま、まさに人と人のつながりそのものが敬遠されています。しかし一方で人とのつながりを考える中で、改めて人の大切さや個人の在り方というものが見直されてきているのも事実です。そしてそれを少なからず補いうる、デジタルなつながりが発達しているのも事実です。

都内からの帰省をあきらめた友人が地元のLINEグループでこのように話しました。「帰りたい田舎があって、会いたい人がいることは、とても幸せな事と思って東京の夏を過ごしてみます。」

「会いたいから、会わない。」一方で「会いたいけど、会えない。」

どちらがコロナ後の人生に前向きな影響を与えるでしょうか。

長く続く苦しい時代に下を向き、また天を仰いで文句を垂れずに、主体的で前向きな人生を生きるための糧にしたいものです。そうでないとこのコロナ禍は大きな禍根を残すことになります。

ふと振り返ってみれば、私たちの後ろには誰しもご先祖さまがいます。盆が過ぎても、その存在があることは変わりません。お墓もお寺もお仏壇も、変わらずそこにありますから、大切に供養を重ねていきたいものです。

当寺ももちろん感染症対策を万全に行っております。たくさんの方にお参りに来ていただき、少しでもいつもと変わらないお盆を過ごしたいものです。この山奥に花以外のミツは存在しませんので、安心してお参りください。

合掌