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浄土宗が開かれた理由

仏教は今からおよそ2500年前、インドに生まれたお釈迦様によって説かれた教えです。その真実を述えたその教えは当時のインドを席巻するに留まらず中国・朝鮮半島と西域に巡り、独自の発展と変容を経ながら、間もなく古墳時代の日本に伝来しました。その後、飛鳥時代に入り聖徳太子が現れると、仏教精神にのっとった「一七条の憲法」が制定され、その鎮護国家思想(=仏教には国を鎮め守る力がある)により仏教は大きな発展を遂げました。

時代は下り奈良時代、平安時代を迎えると伝教大師最澄と弘法大師空海がともに遣唐師船団で中国に渡り、最澄は天台宗を、空海は真言密教を携えて帰国します。こうして日本の仏教は極めて華やかな展開を示すこととなりました。しかし、この時代までの仏教は主に国家護持のための仏教であり、天皇や貴族の加護のために発揮される色彩が強く、一部の学問や芸術を除けば、一般庶民にとってはまだまだ手の届かない存在でした。仏教が国の発展に寄与した一方で、最下層で喘ぐ一般民衆は置き去りの状態であったといえます。

鎌倉時代を迎えると、そうした最下層で飢えや貧困に喘ぐ一般民衆をも、どうにかして救うことが出来ないかと、次第に新たな危機感に基づいた仏教が起こり始めます。続く戦乱に加え、度重なる天変地異が続きたこの時代。まさに人々は仏教経典に記された「末法思想(=仏教が衰退し人も世も荒廃するという歴史観)」と重ねて、言いようのない絶望感を抱える生活を送っていました。

そんな時代に登場したのが、鎌倉新仏教の旗手といわれる人たちでした。法然上人(浄土宗)、親鸞聖人(浄土真宗)、栄西禅師(臨済宗)、道元禅師(曹洞宗)、日蓮上人(日蓮宗)、一遍上人(時宗)。いずれも如何にして悟りを求め、同時に苦境にあえぐ人々をどうすれば救い取ることが出来るのかというテーマを自らに課し「民衆教化(≒在俗生活における仏教の実践)」をひとつの目的として開かれた仏教の新しい流れでした。何より一般庶民にとって既存仏教は非常に困難で、教養を必要とする敷居の高いものであった。それを簡単に示す方法が、この鎌倉新仏教をひとつのムーブメント足らしめた要因でありました。

法然上人はまさにこの仏教新時代の立役者の一人であり、今もっとも大切なことは、この「私」が仏教を理解し、それに基づいて如何に生き、そして救われるかということを「南無阿弥陀仏」のわずか六文字に集約しました。その易しい教えは不安に苦しむ人々が対峙する、日々を生き、働き、生活する「私」が、如何に主体的に仏の教えを受け止めるかということについて、ひとつの答えを与えてくれました。

法然上人が修行のなかで得た、深い洞察力と優れた時代認識により、このような最悪の時代に生きる我々もまた、罪深き「凡夫(=煩悩に囚われ正しい教えを実践できない人)」であると自覚されました。それでも、顔を上げて前を向いて生きていくための希望の光をこの暗い時代に注ぐため、法然上人は浄土宗の開祖となり、教えを人々に広めたといわれています。

合掌

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