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浄土宗について

浄土宗とは?

開祖 法然上人

1133年(長承2)4月7日生。法然上人(幼名勢至丸)は平安時代末期の美作国(岡山県)に武士の子として生まれました。9歳の時に父・漆間時国が敵対勢力からの夜襲に遭い、勢至丸の目の前で息を引き取ります。武家の習いによるならば勢至丸に課せられるのは「仇討ち」ですが、父・時国公はそれを望みませんでした。時国公は死の直前「敵を恨んではいけない」と仇討ちを諫め、また「出家して迷い苦しみを離れ、私の菩提を弔いなさい」と言い残して絶命しました。時国公は恨みが恨みを呼び、憎しみが憎しみを呼ぶことを知っていたのです。

こうして父の遺言に真摯に従い13歳で出家し比叡山に上った法然上人。比叡山では天台宗の修行と勉学に明け暮れ、わずか数年にして「智慧第一の法然房」と謳われるまでになります。ところが、法然上人自身にはそうした意識は全くなく、それどころか「ろくに戒律も守れない、一つの修行も満足に成し遂げることのできない、なんと愚かな自分であることか」と、厳しく自己を見つめる日々が続きました。

その自らを厳しく省みるうちに「本当に困っている人たちにこそ、仏の慈悲は注がれなくてはならない。煩悩に満ちた罪深いものこそが救われなくては何の意味があろうか。」と思い至り「そのための誰にでもできる教えや修行が必ずあるはずだ」と更なる修行を重ねることとなります。

浄土宗の開宗

あるときには名僧と謳われる学者を訪ねては教えを学び、あるときは経蔵にこもり「一切経」という経典の大全集数千巻を紐解いて何度も読み返す日々。しかし、それでも満足することはできず、法然上人はしばしば絶望に追い込まれます。教えを求める師もなく、また納得の行く教えを得ることもできない苦悶の旅は延々と続きます。

しかし、法然上人43歳のとき――。やがて長い苦悩に終止符が打たれる日がやってきます。それは、中国の善導大師の『観経の疏』という書物に説かれている一文を読んだときです。

 ” 一心専念弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念々不捨者 是名正定之業 順彼仏願故 ”

「一心にひたすら阿弥陀仏のお名前を称え、行動しているときも家にいるときも座っているときも寝ているときも、いつでもその仏をひと時も忘れず、捨てないことを本当に正しい行いというのです。なぜならば、それが阿弥陀仏の衆生を救うという誓願による行いだからです」という意味です。それは「念称是一」といって、念ずることは称えることと一致するということを意味します。そのように阿弥陀仏のみ名を称えていれば、必ず誰もが極楽浄土に救い取られるという事を表明した文でした。

上人は、脳裏から暗雲が晴れて輝かしい光が眼前に開かれていく思いを得ました。上人のほほを、感激の涙がとめどなく流れ落ちました。上人は西に向かって合掌し、念仏を称えました。さらに感極まって五体を地に投げ出し、なおも法悦の涙を絞るのでした。

「知恵第一」とたたえられた法然上人の三十余年にわたる精進の収穫は、いっさいの知恵学問を捨て去ることでした。そして、ただひたすら念仏を称えれば阿弥陀仏がすべての人を救ってくださることを悟ったのです。承安五年(1175)春、ここに浄土宗開宗となりました。

浄土宗の教え

「南無阿弥陀仏」
この言葉は、大抵の方が耳にされたことがあるはずです。また、阿弥陀仏(阿弥陀如来)や西方極楽浄土という言葉も耳にしたことがあるのではないでしょうか。浄土宗の教えは、このお念仏をとなえて阿弥陀仏の極楽浄土へ生まれゆくこと(往生)を願うという、きわめてシンプルで分かりやすいものです。

仏教ではさまざまな修行が説かれています。どれも、私たちの抱える苦しみや悩みから自由になること――つまり「さとり」に至るためのものです。しかし法然上人が目の当たりにした当時の仏教はどれも困難なもので、特に続く乱世や天災による飢饉・貧困に喘ぐ庶民にとって、手の届かない存在でした。時間的、物理的な制約もあるでしょう。しかし何より、生きていれば当たり前にもってしまう”煩悩”という厚い壁が妨げとなっているからにほかなりません。そこで法然上人が目を向けたのが「お念仏の教え」つまり「南無阿弥陀仏」でした。

西方極楽浄土の仏さまである阿弥陀仏は「私の国(極楽浄土)へ生まれたいと願って私の名前を呼びなさい。そうすれば煩悩の有無などに関係なく、必ず極楽浄土に迎え導きます」と誓われています。その誓い(本願)を素直に信じ、心からお念仏をとなえ、悩みや苦しみのない浄らかな仏さまの国(西方極楽浄土)へ救い導いていただきましょう、というのが浄土宗の教えの根幹です。

浄土宗のお経とご本尊

極楽浄土や阿弥陀仏、お念仏のことは『無量寿経(むりょうじゅきょう)』『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』『阿弥陀経(あみだきょう)』というお経に説かれており、浄土宗ではこれらをよりどころの経典としています。葬儀や各種法要で読み上げられるのは、主にこれらのお経(またはその一部)です。また、寺院やお仏壇のご本尊(ほんぞん)には阿弥陀仏を、脇侍(きょうじ)として向かって右に観音菩薩(かんのんぼさつ)を、左に勢至菩薩(せいしぼさつ)お祀りします(一部、由緒や歴史などから、他の仏さまや菩薩さまをご本尊としてお祀りしている寺院もあります)。

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浄土宗が開かれた理由

仏教は今からおよそ2500年前、インドに生まれたお釈迦様によって説かれた教えです。その真実を述えたその教えは当時のインドを席巻するに留まらず中国・朝鮮半島と西域に巡り、独自の発展と変容を経ながら、間もなく古墳時代の日本に伝来しました。その後、飛鳥時代に入り聖徳太子が現れると、仏教精神にのっとった「一七条の憲法」が制定され、その鎮護国家思想(=仏教には国を鎮め守る力がある)により仏教は大きな発展を遂げました。

時代は下り奈良時代、平安時代を迎えると伝教大師最澄と弘法大師空海がともに遣唐師船団で中国に渡り、最澄は天台宗を、空海は真言密教を携えて帰国します。こうして日本の仏教は極めて華やかな展開を示すこととなりました。しかし、この時代までの仏教は主に国家護持のための仏教であり、天皇や貴族の加護のために発揮される色彩が強く、一部の学問や芸術を除けば、一般庶民にとってはまだまだ手の届かない存在でした。仏教が国の発展に寄与した一方で、最下層で喘ぐ一般民衆は置き去りの状態であったといえます。

鎌倉時代を迎えると、そうした最下層で飢えや貧困に喘ぐ一般民衆をも、どうにかして救うことが出来ないかと、次第に新たな危機感に基づいた仏教が起こり始めます。続く戦乱に加え、度重なる天変地異が続きたこの時代。まさに人々は仏教経典に記された「末法思想(=仏教が衰退し人も世も荒廃するという歴史観)」と重ねて、言いようのない絶望感を抱える生活を送っていました。

そんな時代に登場したのが、鎌倉新仏教の旗手といわれる人たちでした。法然上人(浄土宗)、親鸞聖人(浄土真宗)、栄西禅師(臨済宗)、道元禅師(曹洞宗)、日蓮上人(日蓮宗)、一遍上人(時宗)。いずれも如何にして悟りを求め、同時に苦境にあえぐ人々をどうすれば救い取ることが出来るのかというテーマを自らに課し「民衆教化(≒在俗生活における仏教の実践)」をひとつの目的として開かれた仏教の新しい流れでした。何より一般庶民にとって既存仏教は非常に困難で、教養を必要とする敷居の高いものであった。それを簡単に示す方法が、この鎌倉新仏教をひとつのムーブメント足らしめた要因でありました。

法然上人はまさにこの仏教新時代の立役者の一人であり、今もっとも大切なことは、この「私」が仏教を理解し、それに基づいて如何に生き、そして救われるかということを「南無阿弥陀仏」のわずか六文字に集約しました。その易しい教えは不安に苦しむ人々が対峙する、日々を生き、働き、生活する「私」が、如何に主体的に仏の教えを受け止めるかということについて、ひとつの答えを与えてくれました。

法然上人が修行のなかで得た、深い洞察力と優れた時代認識により、このような最悪の時代に生きる我々もまた、罪深き「凡夫(=煩悩に囚われ正しい教えを実践できない人)」であると自覚されました。それでも、顔を上げて前を向いて生きていくための希望の光をこの暗い時代に注ぐため、法然上人は浄土宗の開祖となり、教えを人々に広めたといわれています。

合掌

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塔婆と盆扶持供養札(盂蘭盆会供養札)について

卒塔婆

お経には、お塔婆(卒塔婆)は「菩提の化身」であり、塔婆を建立することは「この上ない善行」であると書かれています。

つまり、塔婆は亡くなった人のこの世の御姿であり、それを供養することは故人の菩提の増進につながり、供養する人にとっても他に比べようがない程の善行になるということです。写真のようにご仏壇に飾り燈火献香しお供物をお飾りして下さい。

盆扶持札

 また、盆扶持札も同じ意味でこれはご先祖様お盆の供養のためのものです。お盆の期間中お仏壇の前に飾り、お供物等を献じて供養してください。

そして最も大切なことはお仏壇に向かい手を合わせてお念仏(南無阿弥陀仏)をお称えすることです。これが最高の供養です。

お盆が終わりましたら焚き上げ(送り火)やお流し(精霊流し)が昔からの伝統でしたが、現在はなかなか難しいようですのでお寺にお返しいただいても結構です。粗末にならないようにしてください。お塔婆はお墓に収め古くなったら焼却(お焚き上げ)するか、お寺にお返しください。

合掌