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ことのは掲示板 2020年11月

今年もわずか二月を残すところとなりました。

鮮やかな赤黄に移り行く山々に秋の深まりを感じます。

若坊主(修行中)で御座います。

今月の言葉はこちら

「あみた仏に そむる心のいろにいては あきのこすゑのたくひならまし」

【現代かな】阿弥陀仏に 染むる心の色に出でば 秋の梢の類ならまし」

今月の言葉も、先月に引き続き法然上人の和歌から頂戴しております。

分かりやすく読み解くなら、次のように言い換えることが出来ます(私訳です)。

「阿弥陀仏を信じる心を色に喩えるなら、きっと美しい秋の紅葉のようなものでしょう」

法然上人が、紅葉に染まり行く秋の風情に誘われてこの御歌をお詠みになったといわれています。

私はこちらの和歌に、二つの意味が込められてると頂いております。

1つには"信じる心は紅葉のように少しずつ染まっていくものです"という意味。

1つには"慈光に照らされたそれぞれが赤や黄に染まり、それぞれ美しく輝いている"という意味。

これら合わせて「ありのままの信心と日々のお念仏」の大切さを、

この和歌に詠まれたのではないでしょうか。

秋という季節

さて、秋というイメージは一方では「食欲の秋」「スポーツの秋」「読書の秋」といった

気候の良さや充実した作物によるポジティブな側面を多く感じることが出来ます。

しかし一方で冬が近づくにつれ、日に日に寒さが厳しくなり、青々とした木々が消え行くような

そんな退廃的で鬱屈とした、いわゆるネガティブな側面も孕み得る季節でもあります。

特に陽が次第に短くなっていくにつれ活動性が低下しがちな季節ともいえますから、

心の持ちようによっては、哀愁や悲嘆を感じざるを得ないとも限りません。

しかしだからこそ、一瞬を輝く紅葉の美しさに心惹かれるのかもしれません。

こうして、その時に感じた「一瞬の心の動き」に目を止めることもまた、

季節の移り変わりの醍醐味であるなと、ふと木々を見上げて思うのです。

紅葉の仕組み

秋の風物詩といえる紅葉ですが、そのメカニズムは一説には次のようにいわれます。

春に芽吹いた葉は、夏の強い日差しを受けて青々と生い茂ります。

葉緑体での光合成により、緑の色素を持つクロロフィルが次々に生産されることで、

生き生きとした葉が生い茂ると、中学か高校のどっちかで習いました。

秋になると陽が穏やかになり、光合成のためのエネルギーが少なくなってきます。

そうして気温の低下に伴って光合成の活動が弱まってくると、

「こんなに活動が出来ないならば、木が生きるためには葉を落とすしかないな」という

生存戦略を一部の植物が取るそうです。これが落葉樹ですね。

すると、落葉樹は葉を落とすために葉緑素を分解して枝や幹に戻し始めます。

この過程でもともとあった黄色の色素が出てくるのだそうです。

一方で赤色はというと、落葉のために幹と葉の栄養供給が遮断された結果、

葉に残った栄養分がアントシアニンという赤い色素に変わり、葉を鮮やかに染めるのです。

このように植物によって栄養供給のメカニズムや生存戦略が異なっていたり、

また日当たりの差や葉の重なりによって、色づきが異なる理由だというのです。

紅葉を詠む

つまり柔らかな秋の陽に照らされて、もともとあった黄の色合いが表に出てきたり、

照らされ続けることで赤色に変わっていったりというのが、紅葉の仕組みといえます。

阿弥陀仏の慈光を柔らかな秋の陽の光に喩え、移り行く季節の中で

信じる心が赤や黄に少しずつ、そしてそれぞれ、美しく染まっていく。

浄土宗の教えで最も大切である「南無阿弥陀仏」とお唱えするだけで往生が叶うという、

にわかに信じられないようなことであれ、切な気持ちやそれに基づいた行動を積み重ねることで

その人なりの信心に変わっていき、その人らしい救われ方につながる。

そしてそのすべては阿弥陀様の御心によるものですよと、

法然上人は私たちに詠み伝えたのではないでしょうか。

「みんな違って、みんないい」というお念仏

科学や数学の目覚ましい発展の中で、白黒はっきりするような極端な二元論が好まれるこの時代。

「疑いの心」があるならば「信じている」ということすら憚られる時代でもあります。

なんだかわかんないけれど、こうしていると心が落ち着く気がする。

信じてはいないんだけど、お寺で手を合わせると何だか故人を供養しているような気になる。

よくわからないけど、仏前や焼香の時は手を合わせないと変な心持ちになる。

本当に些細なことで構いません。今の自分に出来る小さなこと」から始めましょう。

小さなこと」に気付けるよう、自分自身を見つめる機会を持ちましょう。

小さなことこそ、大きなものにつながる一つのピースに、既になっているかもしれません。

その機会こそが、たとえばお葬式であったり、法事であるのかもしれません。

ですからお寺参りに来る方には、その人なりの心の作法がありますし、供養があります。

そういう気持ちを大切にしながら、自然と手が合わさるお寺になったらいいなと考えています。

合掌

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