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ことのは掲示板 2020年10月

10月に入り朝夕はめっきり肌寒くなって参りました。

若坊主(修行中)で御座います。

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「阿弥陀仏と 十声称えて まどろまん 永き眠りに なりもこそすれ」

この和歌は浄土宗の宗祖である法然上人がお詠みになったものです。

”「南無阿弥陀仏」と十遍お称えしてから、夜休むようにしたいものです。

いつ永遠の眠りにつくとも限らないのですから”という意味です。

この御歌には2つの意味が含まれているように感じます。

1つには”いつでもお念仏の中で生活をいたしましょう”という意味。

1つには”この世は諸行無常であることを心得ましょう”という意味です。

この両者を合わせた常行念仏をこの和歌に詠まれたのではないでしょうか。

最近の報道を受けて

さて、ここ最近著名な方の自死がセンセーショナルに取り上げられています。

本当に悲しいことであり、ニュースを目にするたび心が痛くなります。

またその悲しみの連鎖がしきりに取り沙汰されている点も、今回の報道加熱の特徴です。

たとえば大切な人を亡くされた方は、その残酷な事実を受け入れようと

ときに自己を責めてさらに苦しみを増やし兼ねません。

しかし、近しい人はおろか、その選択をした本人にすら

その”明日”を予見し得なかったということも、往々にしてあるのではないでしょうか。

そんな困難で複雑なものごとの理由や責任を、誰かが抱える必要はないのかもしれません。

我々は誰一人として、こうして命を頂いた理由を知らず、

死ななければならない理由もまた、わかりません。

そもそも、生も死も"それ自体"として自分が体験することが出来ない以上、

そのいずれの「理由」や「責任」を語ること自体が不毛なことです。

あえて言葉にするのなら、私たちの生や死は、それ自体として意味や価値はありません。

生に意味や価値を生むのは、死を選択できるにも関わらず、生きることを決断したそのとき。

つまりそれ以前には何もなく、生きることの決断の後に意味と価値があるといえます。

こうした一人ひとりの困難な決断の連続が、人として生きる意味と価値を創造します。

つまり相対的に、他の決断が自らの生に意味や価値を直接に与えることが出来ない以上、

無条件でそれらを肯定する権利も、否定する権利も持たないということになります。

「南無阿弥陀仏をお唱えしましょう」とは?

法然上人はこの和歌で「いつでもお念仏の中で生活いたしましょう」という教えを残されました。

しかし「いつお迎えが来ても良いように」という境地に至るのは大変困難なことです。

修行中の私はこれを「一生懸命に生きましょう」と読み替えます。

「精一杯いまを生きましょう。何があるかわかりませんから。」ですね。

何が起こるかわからない世の中を、出来るだけ精一杯に生きる。

ただなにも、過度に頑張ったり、無理をしろということではないでしょう。

何事もなるようになるものはなるし、ならないことはならないものです。

"生"も"死"も見方を変えれば、なるようになるし、ならないことはならないもの。

ただひとつ、いま、いま、いまの生を決断し続ければ、後ろに意味と価値とが生まれます。

私のような残念な生グサの場合、たとえ自分なりに精一杯生きて、死んでいったとして

果たして惜しまれるのか悲しまれるのか、それともせいせいされるのかわかりませんが、

少なくとも大切に思っている人に、存在自体を意味として感じ取っていただきたいものです。

それが私が人として生きるために、唯一出来ることなのではないでしょうか。

そんなことを考えながら、今日もまた私は「南無阿弥陀仏」お唱えします。

合掌

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