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高山彦九郎

高山彦九郎について

寛政の三奇人(高山彦九郎、林子平、蒲生君平)として有名な高山彦九郎正之(字仲縄)は、延享4年(1747)、上野国新田郡細谷村(現群馬県)に生まれ、18才で京都に遊学したのをはじめとして全国各地を遊歴し見聞を広め、また儒学者等とも交わり。徳川幕府を批判し王政復古を唱え、当時における先駆的政治思想を説いた。九州での遊学において幕府の追求もあり、寛政5年(1793)6月27日、友人である森嘉膳の離れで割腹して憤死しました。彼の思想は幕末における志士たちに大きな影響を与え明治維新を切り開く思想的原動力となった。

高山正之真筆

高山彦九郎が当寺31世讃誉玄海和尚(寛政4年1月26日西帰)と親交が厚く、官位昇進の際、金子5枚と酒樽2樽を賜った。その証拠の品となる和尚に宛てた真筆の書が残っている。1793年に正之死亡(寛政3年)より考察すれば、安永年間(1770年代)頃の書簡と思われる。

文(意訳含む)

今般貴僧様御儀御綸旨御頂戴被遊候上官位御昇進被遊候由誠に似御寺の御威光壇信徒之尊敬勇々敷御事之至小拙等迄満悦至極に奉存候依銀子の五枚御酒二樽進上し仕候聊御嘉儀申上度如此御座候、次に一昨朝以玄海を被仰候儀は天文三丑年長尾影虎が被兄彈正左衛門晴影闇弱乱行なるがゆへ越後之諸将叛き乱れしかば影虎国家の危きを計り兄晴影を討ち国中大半治るといへども長尾平三が徒黒田和泉守金津伊豆守等城砦に依て近隣を犯し百姓を斬害するの間影虎今度海野平より越後に帰陣し村松安田管名の城を陥し天文十七年迄越後の事蹟影虎が奇計にて甲越軍記と申拙著二編に出し置候条一覧被遊べく候也

 

八月十二日

正之

宝蔵寺 様

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