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寺宝・文化財

寺宝・文化財

1.総欅造本堂

起  工  文化九年甲十一月(1812年)

棟  上  文政元年九月(1818年)

棟  梁  二日町 内藤 藤蔵

一村尾 小幡 金次郎

二日町 内藤 武三郎 外大工大勢

壇中五十ヶ村より

普請人足    8,443人

棟上迄総大工 5,343人

雑   作   2,802人

木   挽    2,247人

外 左官、塗師、欄間彫刻等々

2.北条時頼公ゆかりの品

岩屋地蔵半跏座像

台裏書より

建長禅寺長老明厳和尚點眼供養 鎌倉泉谷居住出雲法眼院向造

於鎌倉山内尾藤谷宝積庵主比丘尼覚庵従縁敬白

□ 延文第三戌歳六月念四日(1358年6月24日)

請六口僧安座供養

水晶の念珠

付文不明

3.通行手形と道中日記

増上寺御用と御綸上には葵御紋、知恩寺には菊花紋がはっきりと見える。

4.高山彦九郎書簡(官位昇進事寄進礼状)

高山彦九郎(直之)が当山31世讃誉玄海和尚に宛てた手紙

安永年間(1770年代)頃の書簡と思われる

5.天井絵

本堂外陣の間の格天井に描かれた天井絵の数々。 右は「北越雪譜」の著者鈴木牧之の鯉。池中の黒鯉が今にもその巨体をひるがえして泳ぎだしそうな感じさえする。牧之は秋山郷往来の際に三坂峠を使っていたようで彼の著書には稲倉の地名が出てくることから、時々立ち寄ったりして親交があったと思われる。ただ、宝蔵寺建立は出てきていない。自然科学中心に興味の範囲の広がっている彼の目には寺院建立の大工事も些事にしか写らなかったのだろうか。彼は狩野派の徒弟として絵を学んでいたことがあるようだ..

天井絵

仏像・尊像

1.御本尊(日輪宝冠千手観音菩薩像)

積み稲(稲鳰)の上に天然来現し給うた五穀豊穣の本尊

豊作観音としてより尊崇されて来た。

写真は御前立

本尊様は後ろの大きな厨子の中の奉安

毎年10月20日の十夜法要時に御開帳する。

2.弥陀三尊立像来像

弥陀三尊

中央に阿弥陀如来像、右観音菩薩像、左勢至菩薩像

堀之内町原 古田島平助家より移奉安

3.夜泣き地蔵(地蔵菩薩像)

別名夜泣き地蔵として信仰を集めている。

4.阿弥陀如立像来像

位牌座中央に安置。相当に古いものらしく煤により真っ黒になっていたものを昭和56年に洗濯したところまばゆいばかりの黄金色が甦った。

5.尊師像(四尊師座像)

上段左 法然像、下段右 善導像とおもわれるが、他の像に付いては言い伝えが残っていない。推察すれば曇鸞、道綽か、或いは2祖弁長、3祖良忠上人像の可能性、また、当寺開祖了浄像という人もいる。いずれにせよ作成年代、因縁等の調査必要。

6.チーン石

正体不明古来より伝わるチーン石

たたくとチーン、チーンと金属音のする石。風評ではこの寺を建てるときに掘り出されたとか、ある日空から落ちてきた隕石だとか諸処あり。隕石にしては比重が軽いとのこと。また、誰が言い出したかたたくと金運に恵まれるとか...さてその御利益は...?

7.おびんずるさま(賓頭廬:びんずる像)

ピンドウラというお釈迦様の弟子で、有名な十六羅漢の一人。姓は捷疾(病気の勝つ)名は不動。俗におびんずるさまと呼ばれ、病人が自分の患部と同じ像の部分を撫で回せば治るというためなでぼとけさまともいわれている。

8.阿弥陀如座像来像

堀之内町原に当寺末庵として阿弥陀堂がありその本尊として安置してあったもの。当寺27世声誉観良上人の代と伝えられているので寛保年間(1740年)に安置されたものではないか。昭和期に原より当寺に移奉安。濡れ仏が供出された後に安置された。

9.観世音菩薩坐像

宝冠をかぶった姿の観音様、観世音菩薩とは慈悲をもって人々を救済する仏さま。当寺では戦没慰霊者の位牌壇に安置されている。奉安の由来はよく分からない。相当汚れていたために前住職(42世実誉上人)代に修繕をおこなった。

日輪宝冠千手観音菩薩
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