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梵鐘について

梵鐘について

先代の梵鐘

先代の梵鐘は、その碑文によると延享元年7月17日(1744年)に造営されており、その2年前(寛保2年)に入寂した当寺第27世 音蓮社声誉上人(観良和尚)の菩提のために第28世 皆蓮社到誉上人(観及和尚)が「求之」したとなっている。

戦中に供出されたため現在は写真でしか確認することができない

この鐘は長さ4尺(約132cm)、径2尺8寸2分(約94cm)といわれているので現在のもの(長さ180cm、径90cm)よりやや小さいものの当時としてはなかなか立派なものであった。作ったのは越之後州刈羽郡大窪之住 藤原氏 歌代六郎右エ門永秋、小熊巳之助と碑文にあるので現在の新潟市近郊(詳しく調査要)で作られたものである。

戦争により徴用

延享元年に造営され幾多の時節をこえて鯨音をつたえてきた当時の梵鐘であったが、太平洋戦争末期の昭和19年に旧軍に兵器増産のための原料として、濡れ仏や他の真鍮の什器と共に徴用された。その後、原料として使用されたのかどうかは不明である。現在は徴用されたときに写されたのであろう写真のみが残されているのみである。

梵鐘の再建・・釣り鐘再び響く

現在の梵鐘は、昭和55年(1980年)に完成している。檀家有志の「釣り鐘再建」の声により昭和53年に特別委員会(水落孫一朗委員長)を設けて檀家から寄付金を募り約2年の歳月をへての完成である。この釣り鐘は高さ1.8メートル、外円の直径90センチ、厚さ7センチ、重さ約750キロで鋳金製ある。制作は富山県高岡市の老子であり、委員会は鋳込みの際の立会にわざわざこの地を訪れている。また6月には、檀家代表約360人が参加して開眼供養も行われている。檀家代表約360名という数がその喜びの大きさをあらわしている。願主は第42世 誠蓮社実誉上人(隆道和尚)である。見出しの「釣り鐘再び響く」は昭和55年7月17日(木)の新潟日報の記事の見出しに使われた文である。

現在も現役で山中に梵鐘を響かせる
梵鐘碑文

光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨

「光明は遍く十方世界を照らし念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」

これは『観無量寿経』第九身心観文の文である。

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寺宝・文化財

寺宝・文化財

1.総欅造本堂

起  工  文化九年甲十一月(1812年)

棟  上  文政元年九月(1818年)

棟  梁  二日町 内藤 藤蔵

一村尾 小幡 金次郎

二日町 内藤 武三郎 外大工大勢

壇中五十ヶ村より

普請人足    8,443人

棟上迄総大工 5,343人

雑   作   2,802人

木   挽    2,247人

外 左官、塗師、欄間彫刻等々

2.北条時頼公ゆかりの品

岩屋地蔵半跏座像

台裏書より

建長禅寺長老明厳和尚點眼供養 鎌倉泉谷居住出雲法眼院向造

於鎌倉山内尾藤谷宝積庵主比丘尼覚庵従縁敬白

□ 延文第三戌歳六月念四日(1358年6月24日)

請六口僧安座供養

水晶の念珠

付文不明

3.通行手形と道中日記

増上寺御用と御綸上には葵御紋、知恩寺には菊花紋がはっきりと見える。

4.高山彦九郎書簡(官位昇進事寄進礼状)

高山彦九郎(直之)が当山31世讃誉玄海和尚に宛てた手紙

安永年間(1770年代)頃の書簡と思われる

5.天井絵

本堂外陣の間の格天井に描かれた天井絵の数々。 右は「北越雪譜」の著者鈴木牧之の鯉。池中の黒鯉が今にもその巨体をひるがえして泳ぎだしそうな感じさえする。牧之は秋山郷往来の際に三坂峠を使っていたようで彼の著書には稲倉の地名が出てくることから、時々立ち寄ったりして親交があったと思われる。ただ、宝蔵寺建立は出てきていない。自然科学中心に興味の範囲の広がっている彼の目には寺院建立の大工事も些事にしか写らなかったのだろうか。彼は狩野派の徒弟として絵を学んでいたことがあるようだ..

天井絵

仏像・尊像

1.御本尊(日輪宝冠千手観音菩薩像)

積み稲(稲鳰)の上に天然来現し給うた五穀豊穣の本尊

豊作観音としてより尊崇されて来た。

写真は御前立

本尊様は後ろの大きな厨子の中の奉安

毎年10月20日の十夜法要時に御開帳する。

2.弥陀三尊立像来像

弥陀三尊

中央に阿弥陀如来像、右観音菩薩像、左勢至菩薩像

堀之内町原 古田島平助家より移奉安

3.夜泣き地蔵(地蔵菩薩像)

別名夜泣き地蔵として信仰を集めている。

4.阿弥陀如立像来像

位牌座中央に安置。相当に古いものらしく煤により真っ黒になっていたものを昭和56年に洗濯したところまばゆいばかりの黄金色が甦った。

5.尊師像(四尊師座像)

上段左 法然像、下段右 善導像とおもわれるが、他の像に付いては言い伝えが残っていない。推察すれば曇鸞、道綽か、或いは2祖弁長、3祖良忠上人像の可能性、また、当寺開祖了浄像という人もいる。いずれにせよ作成年代、因縁等の調査必要。

6.チーン石

正体不明古来より伝わるチーン石

たたくとチーン、チーンと金属音のする石。風評ではこの寺を建てるときに掘り出されたとか、ある日空から落ちてきた隕石だとか諸処あり。隕石にしては比重が軽いとのこと。また、誰が言い出したかたたくと金運に恵まれるとか...さてその御利益は...?

7.おびんずるさま(賓頭廬:びんずる像)

ピンドウラというお釈迦様の弟子で、有名な十六羅漢の一人。姓は捷疾(病気の勝つ)名は不動。俗におびんずるさまと呼ばれ、病人が自分の患部と同じ像の部分を撫で回せば治るというためなでぼとけさまともいわれている。

8.阿弥陀如座像来像

堀之内町原に当寺末庵として阿弥陀堂がありその本尊として安置してあったもの。当寺27世声誉観良上人の代と伝えられているので寛保年間(1740年)に安置されたものではないか。昭和期に原より当寺に移奉安。濡れ仏が供出された後に安置された。

9.観世音菩薩坐像

宝冠をかぶった姿の観音様、観世音菩薩とは慈悲をもって人々を救済する仏さま。当寺では戦没慰霊者の位牌壇に安置されている。奉安の由来はよく分からない。相当汚れていたために前住職(42世実誉上人)代に修繕をおこなった。

日輪宝冠千手観音菩薩

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高山彦九郎

高山彦九郎について

寛政の三奇人(高山彦九郎、林子平、蒲生君平)として有名な高山彦九郎正之(字仲縄)は、延享4年(1747)、上野国新田郡細谷村(現群馬県)に生まれ、18才で京都に遊学したのをはじめとして全国各地を遊歴し見聞を広め、また儒学者等とも交わり。徳川幕府を批判し王政復古を唱え、当時における先駆的政治思想を説いた。九州での遊学において幕府の追求もあり、寛政5年(1793)6月27日、友人である森嘉膳の離れで割腹して憤死しました。彼の思想は幕末における志士たちに大きな影響を与え明治維新を切り開く思想的原動力となった。

高山正之真筆

高山彦九郎が当寺31世讃誉玄海和尚(寛政4年1月26日西帰)と親交が厚く、官位昇進の際、金子5枚と酒樽2樽を賜った。その証拠の品となる和尚に宛てた真筆の書が残っている。1793年に正之死亡(寛政3年)より考察すれば、安永年間(1770年代)頃の書簡と思われる。

文(意訳含む)

今般貴僧様御儀御綸旨御頂戴被遊候上官位御昇進被遊候由誠に似御寺の御威光壇信徒之尊敬勇々敷御事之至小拙等迄満悦至極に奉存候依銀子の五枚御酒二樽進上し仕候聊御嘉儀申上度如此御座候、次に一昨朝以玄海を被仰候儀は天文三丑年長尾影虎が被兄彈正左衛門晴影闇弱乱行なるがゆへ越後之諸将叛き乱れしかば影虎国家の危きを計り兄晴影を討ち国中大半治るといへども長尾平三が徒黒田和泉守金津伊豆守等城砦に依て近隣を犯し百姓を斬害するの間影虎今度海野平より越後に帰陣し村松安田管名の城を陥し天文十七年迄越後の事蹟影虎が奇計にて甲越軍記と申拙著二編に出し置候条一覧被遊べく候也

 

八月十二日

正之

宝蔵寺 様

律儀!入洛の心得?

 

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伝来記

伝来記とは

第40世 頓誉上人により編纂された口伝伝説である。史実的にはかなり確証の薄い部分があるが、火災その他さまざまな理由により由緒、因縁、歴史の文献ががほとんど残されていない当寺にとっては、口術による伝承のみが後世に繋がるものであったかもしれない。これは後山 佐藤清氏により口語訳され昭和49年「宝蔵寺近世史」に付文として掲載されている。伝説として先達が残したものを後世の残したい。原文そのままに記載する。(一部現代語訳)

伝来記(口語訳) 後山 小川清(訳)

そもそも、当寺創建は今を去ること724年前、正元元年(1259年)にさかのぼる。西明寺北条時頼公六十余州廻国の折、魚沼の撥畑(ばちばたけ)の無人の草庵に一夜の宿りをなされた。

(※今でも宝蔵寺の南方300mほど後山寄りに「ばちばたけ」の地名がある。)

夜更けて、公が本尊の陰にお休みなされていると、外から数人の怪しい男たちがドヤドヤと我が家のごとく入ってきた。そして男たちは公がお休みと気づかず酒盛りをはじめた。ところが暫くすると、どうしたことであろうか? 男達は劇しい苦悶の声をあげて夜明けまでにみんなその場に倒れ息絶えてしまった。

怪しい男達は、盗み追剥の成らず者。その中の一人の裏切り者が稼ぎの品を独り占めしようと考えて持ってきた酒に毒を入れていたのだ。そして何食わぬ顔で相手に呑ませ、倒れるのを見届けて「うまくいったわい」と今度は相手の持ってきた酒を呑みはじめた。ところが相手方も同じことを考えていたために、その酒にも毒が入っていたのである。かくて、夜明けまでには、全部の男達が倒れてしまった。と言うわけである。だから、撥畑の地名は罰畑と書くのが本当とも言われている。(筆者-小川清氏-は古老から昔話としてこの話を聴いた記憶がある。)

この一部始終を物陰からご覧になっていられた公は、これぞまさしく神仏の加護、又、他謀自倒の天理とはこのことと深くお感じになられたのである。さて、夜の明けるのを待って公は、背負っておいでの笈仏を草庵の奥に奉安し,身軽ないでたちで、峠を越え妻有中条へと旅をつつけて行かれた。

「中魚沼郡誌」(大正8年刊)には下記のように妻有における時頼公関連の記述がある。
中野村長徳寺千手堂  498ページ
最明寺跡       475ページ
中條長泉寺境内観世音 476ページ
中條村最明寺川    475ページ

その後、時頼公は北陸の巡錫を終えられて鎌倉にお帰りになると、早速、法然の弟子願誉了浄という念仏僧をお呼びになって、越後国魚沼の撥畑の草庵に恵心僧都作の阿弥陀仏の尊像があること、また、そこに我が笈を秘め納めてあることをお話になられ、「汝はそこにおもむき、阿弥陀堂をば宝蔵寺と号し、み仏の慈悲を弘め衆生救済につとめよ!!」とお命じになられた。そして、併せて田畑となる可き山沢凡そ300石を備領とすることをお許しになられた。

その後了浄は撥畑周辺の山林竹林を伐り払い、田畑を拓らき稲を植え野菜を作り、幾年経過した。ある年の秋のこと、よく晴れた朝、了浄はほど近い田の畔に積んである稲の上にまぶしく光り輝くものを見た。何であろうかと、恐る恐ると近づいて見ると、それは、まぎれもなく千手観音の尊像であった。朝の光に映えおごそかに輝き給う尊像、余りの尊さに、ひれ伏しておがみまつり、堂の中へと還しまつったのである。

そして、朝暮礼拝怠らず数日を経たある夜のこと、この菩薩が了浄の夢枕にあらわれた。そして、遠く信濃の国戸隠から飛来し給うたことを告げられたのである。不思議なお告げに了浄は、是非ともその由来を尋ねたいと思い、仕度を整え戸隠参詣の旅に出立した。そして、その道々一人の白髪の老人に出遇った。老人は問ず語りに次のような話をした。「戸隠山では開山、手力雄命の守り本尊として、石でもない岩でもない不思議な固い塊(朱の塊)を宝物として大事にしてきた。幾世代か後に至って、善光寺の本尊が信濃に移り伽藍仏具を建造の折に一人の仏師に命じてこの不思議な塊をもって千手観音菩薩の尊像を刻ませて奉安した。ところが、この菩薩の尊像が不思議ににも「仏法有縁、開発の地に移る」とのお告げ(悪夢)のあと何処へともなく飛び去ってしまわれた。」と語り終ると、老人の姿はかき消す如く見えなくなってしまったのである。依って了浄急ぎ経ち帰り奉安せる千手観音菩薩を拝し奉っているうちに胸のうちに深く頷けるものがあったのである。そして、早速この事情をつぶさに鎌倉の時頼公に報告申し上げたのである。

公におかれてもその不思議な因縁に深く感動なされて、ただちに積稲天然来現の千手観音菩薩を本尊として奉安なされよ、とのご返命あり、同時に地名山号を賜い供養のため寺領も増してお授け下さった。即ち地名については、積み稲の稲と鎌倉の倉と示され、山号は、了浄竹林を伐り払いたる縁をとりて竹子山となされたのである。依ってここに竹子山宝蔵寺一時創建となったのである。

その後、周辺民家も次第に増え、太閤の治世には過分の田畑山林を有して寺門大いに栄え勅額も下り、種々の宝物什器もすくなからず、信者も六里七里よりあまたあつまりて山国の寺院には稀な格式の寺となったのである。ところが、その後豊臣政治のもと、天下寺院の禄をすべて召し上げた折、其の例に洩れず、観音免として僅かに残されただけで他は全部没収されてしまった。

文禄の検地において寺社に対して特に厳しかったことは正史にもある。

その後惜しくも正徳元年(1711年)4月出火、辛うじて尊像等は守り出したが勅額をはじめ古文書古器及び鎌倉よりの文書寄付の物品等大部分焼失したと伝えられているにである。その火災後仮に建立した十二間の本堂は九日町の洞源寺に行き、現在の堂宇は,文化年間再建立されたもので棟梁は有名な上田郷二日町の内藤藤蔵であった。なお,この棟梁の建てた神寺彫刻は浦佐毘沙門堂の山門をはじめ各地にあり世に聞こえた名工である。

本堂開扉の記(ご開帳)

そもそも,当山のご本尊日輪宝冠千手観音菩薩の感応ご利益を仰ぎ奉れば、特に長雨続き、冷害の為五穀の稔り難き恐れのある時には,古来より,近燐の信者相集い相謀り,ご本尊の開扉(ご開帳)を乞い願ってきたものである。因って開扉祈念すればその感応必ずあらたか、すなわち晴天を現わし五穀の豊穣をもたらし来たったのである。

当寺のご本尊は積稲の上に天然来現し給うた五穀豊穣のご本尊、豊作観音として古来尊崇されて来たのである。

笈佛軒の記(岩屋地蔵台座の銘文)

時頼公背負仏と申し上げるのは、ニ童子を随いたお丈け六寸一分のお地蔵様である。(堀之内町指定文化財)この台座の下に銘文が記されてあるが、これは仏教の専門用語も多く,乗運和尚さまも原文のまま揚げられてある。
大慈大悲地蔵薩垂尊像並賞善賞悪oibotoke_pic.jpg (16562 バイト)
二童子右伏願従縁奉為現当二世心中所
願成就円満増長福寿見性成佛及一切衆
生成仏得道造立供養所也
建長禪寺長老明巌和尚点眼供養
鎌倉泉谷居住出雲法眼院向造一丁
鎌倉山内尾藤谷宝石庵比丘尼覚庵従縁
時戊戌歳六月念四日      敬白
請六口僧安座供養

聖徳太子ご尊像の記

抑々、当寺の聖徳太子のご尊像は大師お自からの御作と伝えられる物である。鎌倉から、種々の宝物ご贈与の折に、時に僻陬の地に住む諸人の信仰増上の趣旨を以って送り越された物である。よって諸人深くその意を銘じ、尊崇すべき尊像である。

鎌倉より贈与の宝物

1.元祖大師の舎利堂
1.時頼公の笈、水晶の念珠

当寺重宝

1.二十五菩薩来迎画、皇室より御下賜
1.九品曼荼羅大軸 丈一丈、巾九尺、桐箱入り
1.十界曼荼羅 壱拾幅
1.親鸞蓮如真筆 二幅
1.祐天大僧正 名号 壱
1.徳川家尊牌

梵鐘造鋳

この梵鐘は昭和18年大東亜戦争中、国の金属回収の強い要請に応じて供出させられてしまったので今は写真以外見ることは出来ない。大きさについては長さ4尺、径2尺8寸2分と記録されている。

銘文

越州魚沼郡稲倉郷宝蔵寺二十七世

為音蓮社声誉上人観良菩提也

同二十八世到誉観及求之

干時延亨元年子七月十四日

文曰

若打金時三悪道   (若し鐘を打つ時三悪道)

一切苦悩皆停止   (一切の苦悩皆停止)

五百億劫重罪滅   (五百億劫の重罪滅す)

降伏悪魔除尽結使 (悪魔を降伏して結使を除き尽くす)

(六日町高校 池田亨先生読み)

願主敬白

越之苅羽郡大窪之住

藤原氏

冶工 歌代六郎右ェ門永秋 作

同   小熊巳之助      作

目隠しの杉

昔、向拝の前、境内の間際に往来があって、その道を馬上通ってよく落馬する者があった。(ご本尊の前は下乗するのが建前、乗馬で通るのは無礼)そこで、境内の外際に杉を三本植え、立派に生育、これを目隠杉と呼んでいた。この目隠杉が出来てから落馬する者は無くなった。

三十四世梅誉上人の代に境内近くを向こうの山際へ廻す大工事をやった。その時、道も内鎮守(明神様)の森の向こう側へ廻したので、目隠杉は境内際には土堤を築き松桜等を植えた。川廻しによって、川が村の中を流れなくなったので、村人大いに歓喜した。

濡佛の記

古い由緒は故あって省略し、ここには明治以来のことを記す。

長岡から修復の上再び当寺に帰求した。(当時の有志者のお名前は台座に記してある)その後明治18年に、只今の坦場(だんば)を新築して、一年中冬でも拝まれるように奉安し奉ったのである。

広辞苑に「ぬれぼとけ」とは屋根無き所に安置してあ仏像とあるとおり。この仏様はもとは当寺の戸外に安置されていたのである。それが上記のとおり本堂の一隅におまつりされたのであるが、惜しいことに前項の梵鐘と同じく大東亜戦争に供出されてしまって今は無い。俗に「金佛様」と呼ばれて真鍮色の大きな仏様(坐像)であった。記録には青銅製、阿弥陀如来、御丈三尺六寸、台座二重、重量不詳とある。

鐘楼門の記

安政5年午の8月宗祖大師650年大法要の際寺坦有志者協力新築。

末庵

原村に、三尊阿弥陀如来像 当寺27世観良菩提の為安置せり

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開山縁起

開山縁起

西明寺入道こと北条時頼とのゆかり

かっては山深い草庵があったが、あるとき下貫の畠に積まれた ”稲にお”(稲鳰)の上に秋の月光を浴びて千手観音のお姿が立ったという。以後本尊に千手観音をまつり、この地を稲倉と称した。宝治二年(1248年)越後路を旅していた鎌倉の西明寺入道こと北条時頼が北国視察巡礼の折り、この地を通り、草庵に宿をとった。そして夕食に竹の子飯を馳走になり大変喜んだ時頼は、草庵に対して寺格一等を与えて竹子山の山号を賜り、それまで背負仏としていた岩屋地蔵尊と水晶の念珠を置いて立ち去ったという。

僧了浄により開山

寺院過去帳(江戸時代作成)によると、正元元年(1259年)僧了浄によって開山。伝説(口伝)によれば、北国巡礼を終えて都に帰った時頼が法然上人の弟子願誉了浄上人に命じて開山したことになっている。

推論

浄土宗と北条家の因縁については、3祖良忠上人(記主禅師)宝治3年(1249年)よりの信州詣で、関東遊化のさい鎌倉に入り、北条経時を檀那として蓮華院(光明寺)を開山。また、北条時頼は武州箕田に勝願寺を建て師の供養をし、次いで下総鏑木在阿入道の請いに応じ、下総光明寺をひらく、その他48ヶ寺を開く云々...でとある。上記のように鎌倉政権と浄土宗の関係は深く「北条時頼⇒僧了浄」の年代もほぼ一致しており、関係も直接ではないにしても繋がる可能性がある。

  1. 北条時頼 安貞元年~弘長3年(1227-1263年)経時弟寛元4年(1246年)執権となる。鎌倉西明寺建立。諸国遍歴し民情視察の話有り(江戸時代岡本一抱子の浮世絵草子等)
  2. 良忠上人 正治元年~弘安10年(1199-1287年)2祖聖光上人より浄土教を学び主に関東を中心に布教。

災害

本堂消失

正徳元年(1711年)火災により焼失、その後約100年年間仮本堂文化にて、法灯を守り続ける。仮本堂は現在の本堂の西側にあったといわれる。仮本堂の詳細やこの間に付いては記録は当寺院にはほとんど残されていない。ただ、取りこわした仮本堂は九日町洞源寺に移築されたと記録にある。また、欄間等若干のものは岩沢の不動寺へ移されていることは、中魚沼郡誌にも記載あり。これらのことより仮本堂とは云えども相当のものであったと推察される。

水害

寛政12年には寺が大洪水に見舞われたことも記録にある。現在川は寺から離れて西側の山裾を流れているが昔はもっと近くにあり大雨が降れば寺の境内あたりまで水の危険があったようである。

再建

本堂再建

現存する「本堂再建立帳」によれば本堂が起工 文化9年甲11月(1812年)、棟上文政元年9月(1818年)となっている。また、これに続き庫裏は文政4年に建立されている。着工から庫裏の完成までに約10年の歳月を要している。この本堂再建事業をおこなったときの住職は第33世厳誉快全和尚であり、なんと僅か24歳で住職になり31歳でこの大事業に取り組んでいる。棟梁は二日町 内藤藤蔵・一村尾 小幡金次郎・二日町 内藤武三郎外大工大勢である。いかに大事業であったかを推察するためにその概要を記す。(本堂建立のみの概要で庫裏は別)

寄進

金子 306両2分
米   353俵1斗
人足 壇中50ヶ村より
普請人足     8,843人
棟上迄総大工  5,343人
雑作(ぞうさく)  2,802人
木挽         2,273人
外 左官、塗師、欄間彫刻等々

前述「本堂再建立帳」にはその他詳しく記してあるが都合上省くが、この数字からも未曾有の大事業であったことが伺える。また、「本堂再建立帳」の末尾には「文政5年午6月是を相改申候  辻又村 清兵衛」という著名があって氏がこの普請について重要な役割を果たしていたことも分かる。

川廻し(背替工事)

当事の川は、今の県道向かいの内鎮守の森の東側あたりから庫裏の下側の向かって流れ、それから
今の三坂橋のかかっているあたりに向かっていという言い伝えもあり川は寺の玄関先を流れていた。このため常に水害の危険性があったと思われる。この、川筋を西側の山の出っ張った下(山裾)に間歩を掘り抜いて、流れをそちらに移し、更に旧河川敷を埋め立てて立派な耕地とした。この事業をやったのが第34世 梅誉上人である。工事は天保5年(1834年)に開始(終了時期は明確でない..)本堂再建より約10年再度の献身により環境整備されることにより寺勢はますます興隆したであろうことが想像される。また、この事業は寺のためのみでなく、寺伝の「伝来記」には村人大いに歓喜す、という記述もある。

中興

幕末

第35世の立誉上人は弘化4年(1847年)住職着任し在職10年の安政3年(1856年)には高田 善導寺へ転出してしまい一時無住となる。このため組寺壇中は願い出て総本山の仰付けにより識誉上人(姓・漆間 宗祖法然上人も美作漆間氏だが?)が安政4年に着任する。徳川幕府の崩壊、明治維新へと続くいわゆる幕末である。安政の大獄、戊辰戦争等激動のこの時代これだけの勢力のあった寺が歴史に無関係のはずはないと思われるが、その記録は寺には残っていない。僅かに安政5年8月(1858年)に宗祖大師650年忌の大法要とそれを記念しての鐘楼門の改築が行われている。

荒廃

長い間隆盛を維持してきた当寺にも荒廃の時が訪れる。 明治6年(1873年)識誉上人御遷化の後、第37世の得誉(名は快祐)酒、博打、女色とおよそ僧侶らしからぬ不行跡、また、その間の寺の荒廃ぶりは目を覆うばかりであったといわれる。明治維新の混乱が収束しておらず人心の乱れ甚だしく、また、廃仏毀釈思想等の仏教頽廃機運の時期に寺院の運営も困難をきわめたことが想像されるにしても、当寺の長い歴史のたった一つの汚点としか云いようのない記録である。得誉は明治11年2月1日付けをもって檀家により罷免されている。

努力中興

第38世 呼誉上人は明治12年(1879年)壇信徒の強い懇請によって着任。以後荒廃した寺の建て直しにまさに至心粉骨し寺の再興面目を一新した。また、上人は教育に対しても卓見であり、寺を解放して部落の子弟の教育をおこなった。さらに徒弟育成についても4人の弟子を立派に育てている。この弟子のうち2上人が後に当寺の住職となり法灯を守ることとなる(第39世 旺誉上人、第40世 頓誉上人、また弟子のひとり黒島乗念上人は東京浅草保元寺住職となる-当寺は後進不育成で住職後継問題にて間々無住となっている。また、得誉の不行跡も後進育成と無関係とは云い難い....)ことを考えると、呼誉上人のおこなった教育普及、徒弟育成は、文化9年本堂再建以来の建物、環境の大整備と並び賞される業績といえる。このような功績を讃えてその生前、明治44年に呼誉上人彰功碑が建立された。

近世史については次回...

歴代上人

開山  本蓮社願誉上人了浄大和尚 20日

2世  源蓮社心誉上人性誉大和尚 10日

3世     傳誉上人文達大和尚 10日

4世     聴誉上人空山大和尚   9日

5世     念誉上人及薩大和尚 11日

6世     浄誉上人及善大和尚   9日

7世     三誉上人讃應大和尚 11日

8世     明誉上人尊達大和尚   8日

9世     空誉上人玄随大和尚

10世     願誉上人圓説大和尚 20日

11世     随誉上人義道大和尚 13日

12世     性誉上人智哲大和尚

13世     心誉上人相山大和尚 13日

14世     心誉上人智玄大和尚 19日

15世     念誉上人玄的大和尚 14日

16世     観誉上人満説大和尚

17世     證誉上人智廊大和尚 16日

18世     栄誉上人玄貞大和尚   2日

19世     念誉上人外道大和尚

20世     寂誉上人了感大和尚

21世     心誉上人文哲大和尚    20日

22世 源蓮社貞誉上人呑白宗風大和尚 28日

23世     光誉上人哲道大和尚 16日

24世 覚蓮社行誉上人源説大和尚 延宝7年4月29日

25世     讃誉上人感円大和尚 享保4年1月5日

26世 浄蓮社清誉上人観阿龍単大和尚 宝歴4年3月12日

27世 音蓮社声誉上人観良大和尚 寛保2年6月18日

28世 皆蓮社到誉上人観及大和尚 明和4年1月3日

29世 称蓮社揚誉上人智観大和尚 明和2年10月29日

30世 真蓮社性誉上人助給阿教随大和尚 安永9年4月6日

31世 嘆蓮社讃誉上人玄海大和尚 寛政4年1月26日

32世 深蓮社諦誉上人善教大和尚 文化3年1月4日

33世 浄蓮社厳誉上人光阿麗道快全大和尚 天保6年5月1日 現在の本堂の再建中興

34世 壇蓮社称誉上人真阿実道卓全大和尚 文久2年5月27日

35世     立誉上人卓慧大和尚 明治33年3月4日 高田善導寺へ転出

36世 心蓮社識誉上人博阿古今大道快存大和尚 明治6年4月28日

37世     得誉上人快祐 明治11年2月1日    当山免職となる

38世     呼誉上人立雄大和尚 大正2年6月9日 荒廃の寺立て直す、近隣師弟教育

39世 盛蓮社旺誉上人法阿至道顕雄大和尚 明治28年9月29日

40世 円蓮社頓誉上人戒阿一道乗運大和尚 昭和20年3月

41世 実蓮社在誉上人存阿直道憲隆大和尚 昭和51年7月23日

42世 誠蓮社実誉上人貫阿隆道和尚

43世 称蓮社念誉道也

〇蓮社照誉達也(第43世徒弟)