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梵鐘について

梵鐘について

先代の梵鐘

先代の梵鐘は、その碑文によると延享元年7月17日(1744年)に造営されており、その2年前(寛保2年)に入寂した当寺第27世 音蓮社声誉上人(観良和尚)の菩提のために第28世 皆蓮社到誉上人(観及和尚)が「求之」したとなっている。

戦中に供出されたため現在は写真でしか確認することができない

この鐘は長さ4尺(約132cm)、径2尺8寸2分(約94cm)といわれているので現在のもの(長さ180cm、径90cm)よりやや小さいものの当時としてはなかなか立派なものであった。作ったのは越之後州刈羽郡大窪之住 藤原氏 歌代六郎右エ門永秋、小熊巳之助と碑文にあるので現在の新潟市近郊(詳しく調査要)で作られたものである。

戦争により徴用

延享元年に造営され幾多の時節をこえて鯨音をつたえてきた当時の梵鐘であったが、太平洋戦争末期の昭和19年に旧軍に兵器増産のための原料として、濡れ仏や他の真鍮の什器と共に徴用された。その後、原料として使用されたのかどうかは不明である。現在は徴用されたときに写されたのであろう写真のみが残されているのみである。

梵鐘の再建・・釣り鐘再び響く

現在の梵鐘は、昭和55年(1980年)に完成している。檀家有志の「釣り鐘再建」の声により昭和53年に特別委員会(水落孫一朗委員長)を設けて檀家から寄付金を募り約2年の歳月をへての完成である。この釣り鐘は高さ1.8メートル、外円の直径90センチ、厚さ7センチ、重さ約750キロで鋳金製ある。制作は富山県高岡市の老子であり、委員会は鋳込みの際の立会にわざわざこの地を訪れている。また6月には、檀家代表約360人が参加して開眼供養も行われている。檀家代表約360名という数がその喜びの大きさをあらわしている。願主は第42世 誠蓮社実誉上人(隆道和尚)である。見出しの「釣り鐘再び響く」は昭和55年7月17日(木)の新潟日報の記事の見出しに使われた文である。

現在も現役で山中に梵鐘を響かせる
梵鐘碑文

光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨

「光明は遍く十方世界を照らし念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」

これは『観無量寿経』第九身心観文の文である。

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寺宝・文化財

寺宝・文化財

1.総欅造本堂

起  工  文化九年甲十一月(1812年)

棟  上  文政元年九月(1818年)

棟  梁  二日町 内藤 藤蔵

一村尾 小幡 金次郎

二日町 内藤 武三郎 外大工大勢

壇中五十ヶ村より

普請人足    8,443人

棟上迄総大工 5,343人

雑   作   2,802人

木   挽    2,247人

外 左官、塗師、欄間彫刻等々

2.北条時頼公ゆかりの品

岩屋地蔵半跏座像

台裏書より

建長禅寺長老明厳和尚點眼供養 鎌倉泉谷居住出雲法眼院向造

於鎌倉山内尾藤谷宝積庵主比丘尼覚庵従縁敬白

□ 延文第三戌歳六月念四日(1358年6月24日)

請六口僧安座供養

水晶の念珠

付文不明

3.通行手形と道中日記

増上寺御用と御綸上には葵御紋、知恩寺には菊花紋がはっきりと見える。

4.高山彦九郎書簡(官位昇進事寄進礼状)

高山彦九郎(直之)が当山31世讃誉玄海和尚に宛てた手紙

安永年間(1770年代)頃の書簡と思われる

5.天井絵

本堂外陣の間の格天井に描かれた天井絵の数々。 右は「北越雪譜」の著者鈴木牧之の鯉。池中の黒鯉が今にもその巨体をひるがえして泳ぎだしそうな感じさえする。牧之は秋山郷往来の際に三坂峠を使っていたようで彼の著書には稲倉の地名が出てくることから、時々立ち寄ったりして親交があったと思われる。ただ、宝蔵寺建立は出てきていない。自然科学中心に興味の範囲の広がっている彼の目には寺院建立の大工事も些事にしか写らなかったのだろうか。彼は狩野派の徒弟として絵を学んでいたことがあるようだ..

天井絵

仏像・尊像

1.御本尊(日輪宝冠千手観音菩薩像)

積み稲(稲鳰)の上に天然来現し給うた五穀豊穣の本尊

豊作観音としてより尊崇されて来た。

写真は御前立

本尊様は後ろの大きな厨子の中の奉安

毎年10月20日の十夜法要時に御開帳する。

2.弥陀三尊立像来像

弥陀三尊

中央に阿弥陀如来像、右観音菩薩像、左勢至菩薩像

堀之内町原 古田島平助家より移奉安

3.夜泣き地蔵(地蔵菩薩像)

別名夜泣き地蔵として信仰を集めている。

4.阿弥陀如立像来像

位牌座中央に安置。相当に古いものらしく煤により真っ黒になっていたものを昭和56年に洗濯したところまばゆいばかりの黄金色が甦った。

5.尊師像(四尊師座像)

上段左 法然像、下段右 善導像とおもわれるが、他の像に付いては言い伝えが残っていない。推察すれば曇鸞、道綽か、或いは2祖弁長、3祖良忠上人像の可能性、また、当寺開祖了浄像という人もいる。いずれにせよ作成年代、因縁等の調査必要。

6.チーン石

正体不明古来より伝わるチーン石

たたくとチーン、チーンと金属音のする石。風評ではこの寺を建てるときに掘り出されたとか、ある日空から落ちてきた隕石だとか諸処あり。隕石にしては比重が軽いとのこと。また、誰が言い出したかたたくと金運に恵まれるとか...さてその御利益は...?

7.おびんずるさま(賓頭廬:びんずる像)

ピンドウラというお釈迦様の弟子で、有名な十六羅漢の一人。姓は捷疾(病気の勝つ)名は不動。俗におびんずるさまと呼ばれ、病人が自分の患部と同じ像の部分を撫で回せば治るというためなでぼとけさまともいわれている。

8.阿弥陀如座像来像

堀之内町原に当寺末庵として阿弥陀堂がありその本尊として安置してあったもの。当寺27世声誉観良上人の代と伝えられているので寛保年間(1740年)に安置されたものではないか。昭和期に原より当寺に移奉安。濡れ仏が供出された後に安置された。

9.観世音菩薩坐像

宝冠をかぶった姿の観音様、観世音菩薩とは慈悲をもって人々を救済する仏さま。当寺では戦没慰霊者の位牌壇に安置されている。奉安の由来はよく分からない。相当汚れていたために前住職(42世実誉上人)代に修繕をおこなった。

日輪宝冠千手観音菩薩

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高山彦九郎

高山彦九郎について

寛政の三奇人(高山彦九郎、林子平、蒲生君平)として有名な高山彦九郎正之(字仲縄)は、延享4年(1747)、上野国新田郡細谷村(現群馬県)に生まれ、18才で京都に遊学したのをはじめとして全国各地を遊歴し見聞を広め、また儒学者等とも交わり。徳川幕府を批判し王政復古を唱え、当時における先駆的政治思想を説いた。九州での遊学において幕府の追求もあり、寛政5年(1793)6月27日、友人である森嘉膳の離れで割腹して憤死しました。彼の思想は幕末における志士たちに大きな影響を与え明治維新を切り開く思想的原動力となった。

高山正之真筆

高山彦九郎が当寺31世讃誉玄海和尚(寛政4年1月26日西帰)と親交が厚く、官位昇進の際、金子5枚と酒樽2樽を賜った。その証拠の品となる和尚に宛てた真筆の書が残っている。1793年に正之死亡(寛政3年)より考察すれば、安永年間(1770年代)頃の書簡と思われる。

文(意訳含む)

今般貴僧様御儀御綸旨御頂戴被遊候上官位御昇進被遊候由誠に似御寺の御威光壇信徒之尊敬勇々敷御事之至小拙等迄満悦至極に奉存候依銀子の五枚御酒二樽進上し仕候聊御嘉儀申上度如此御座候、次に一昨朝以玄海を被仰候儀は天文三丑年長尾影虎が被兄彈正左衛門晴影闇弱乱行なるがゆへ越後之諸将叛き乱れしかば影虎国家の危きを計り兄晴影を討ち国中大半治るといへども長尾平三が徒黒田和泉守金津伊豆守等城砦に依て近隣を犯し百姓を斬害するの間影虎今度海野平より越後に帰陣し村松安田管名の城を陥し天文十七年迄越後の事蹟影虎が奇計にて甲越軍記と申拙著二編に出し置候条一覧被遊べく候也

 

八月十二日

正之

宝蔵寺 様

律儀!入洛の心得?